重々しいタイトルですが。
6年生の最後の授業ということで、
終戦当時の実録のビデオを観せてくれた。
満州からの引き上げ者と、シベリア収容所でのようす。
満州からどうやって逃げ出してきたか、
叔父は、これまでもたんたんと話して聞かせてくれていた。
しかし、これほど過酷な状況だったとは、今まで感じ取れなかった。
叔父は感情を込めて話すことを、あえてしなかったのだろうと
恥ずかしながら、今日初めて気がついた。
戦争の悲惨さ、平和の大事さ。
頭の理性の部分では、ちゃんとわかっているつもりだった。
しかし、ぜんぜん心で受け止めていたわけではなかったのを実感した。
~1945年(昭和20年)8月、
第二次世界大戦終結直前にソ連軍が満洲に侵攻、満洲国は崩壊した~
当時8歳だった私の母。
その父母と、兄と妹2人、合計6人で住んでいた。
ある日、ソ連軍が攻めて来るという噂が広まった。
着のみ着のまま、とりあえずのものだけ持って家を出た。
誰もが、一時避難するだけと思って、家を出た。
しかし、家に二度と戻ることはできなかった。
いくばくかの財産、家財、いろいろな思い出。
それらを全部置き去りにしたまま、
遠い遠い日本へ向かって歩き出したそうだ。
私の祖父である一家の父親は、
そのままシベリアの収容所に送られてしまった。
30代の祖母と、小学生の叔父・母・その妹にあたる叔母・幼児の叔母。
5人は、相当な寒さの中、食べるものも寝るところも無い状態でだったという。
信じられないほど冷える夜、汽車の陰にかくれ
線路の上で寝たという。
その道程の途中、幼児だった叔母は亡くなってしまった。。。
いつ襲われるかわからない恐怖感と、ひもじさと、
本当に大変な思いをして大連港に向かい、
必死な思いで船に乗り、ようやく日本に帰ってきたそうだ。
・・・これまで、何度か叔父からこの話を聞いていた。
しかし、今日この映像を観て、
まったく実感していなかったことに気がついた。
今の私よりはるかに若い祖母が、
子供4人を連れて、食べ物もない寒さの中歩き続けた。
必死に守ってくれたからこそ、後に私という存在が生まれたのだ。
こんな言葉しか思い浮かびませんが・・・
よく耐えてくださいました。
本当にありがとうございました。
2010年3月17日水曜日
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